その曲に対する想い入れや思い出や。
自分が一番最初にそういうのを感じたのはいつだったんだろう・・・思い出せない。
コンサートでという話なら確かなのは2005年の年末ではある。
ただ、それ以前からそういう話があったのは確かな事で。
これはこれから先もハロプロが、というか歌というものがなくならない限り決してなくなることはないだろう部分。


色々な状況の変化だったりが更にそういう部分に拍車をかけてしまうこともあると思う。


自分がそういうのを特に感じたり考えたりする、したのは美貴ちゃん、美貴ちゃんの曲。
何度か書いたことはあるけれど、この話題。
自分は贅沢だなっていうのも分かってた。けれど、どうしても自分の中に残る何かがそうさせる。
人って何かを得る、何か一つの満足を得る、欲求を満たすと更なる欲求が湧いてくるものだという。
それに近いものなのかもしれない。


2005年の春の娘。のツアー。人によって色々な思い出があるツアーではあるだろうし、梨華ちゃんの卒業ツアーでもあったのだけれど。
参加したわけではなかったけれど、自分にとってはそのツアーは美貴ちゃんのソロ曲が復活したツアーという位置づけが凄く大きかった。
まだ娘。に対してもやもやした気持ちを抱いたままであった自分にとって、
その部分は自分が再び現場に足を運ぶようになった大きなきっかけの一つ。
あの時歌われたのは「ロマンティック浮かれモード」
そして迎えた2005年の秋。自分が約3年ぶりに行くことになった娘。コン
あの時はまだそれが続くか分からなかった。
始まった秋ツアー、そして歌われたのは「そっと口づけて ギュっと抱きしめて」
凄く嬉しかった。再び美貴ちゃんの歌が聞けたことも、それが続いたという事実も含めて。


それでも・・・どうしてももっと聞きたいと思ってしまう自分がそこには居て。
もっともっと色々な曲が聞きたいって。そういう希望、欲求は止まらない。
そんな風に思ってたのはきっと自分だけじゃないはず。
前にも何度か書いたことあるけれど、自分が一番聞きたいって思ってる曲はあの時もいまも変わらず、
会えない長い日曜日」、デビュー曲。


元々ソロから始まってるからっていうのが当たり前の理由といえば理由だとは思うのだけれど、
でも、純粋にやっぱりもっと聞きたいって思っていて。ずっと。
だから、それがある種満たされるであろう、GAMコンだったり、その先をずっと楽しみにしていて。
そういう状況、もっと聞きたいのに、聞きたい曲もあるのに聞けないっていう状況。
そんな状況だったから他の誰かが彼女の歌っていた歌を歌うっていう状況がどうにも納得できない、
自分の中で消化しきれなかったという時期があって。
人によってこういう部分は大分差があるんだろうなーって思うのだけれどね。


そういう状況の中だったので、2005年の年末にハロプロパーティで見た「ブギートレイン」には物凄く凹まされて。
コンサート見ててあんな風に凹んだのとか生まれて初めてだった。
その翌年だっけかな?美勇伝のツアーでまさに自分が聞きたいと思っていた「会えない長い日曜日」が歌われたって聞いた時にもまた凄い落ち込んで。
当時色々な周りの人に「来ませんか?」みたいに誘われていたりもしたコンサートだったけれど、
その曲、事実一つで自分の行く気は0になっていて。
あの頃は頑なにそういう状況を拒んでいた。


あれから2年近く経って・・・気づいたら大分変わってた。
そういう状況に対する所謂”慣れ”みたいなのも確かにあったんだろうけど、それだけでもないって思ってて。
だから何でかな?とかいろいろずっと考えてたりして。


その一つがきっと、その歌を歌う新しい歌い手に対する自分の想いとか、或いはその人から感じる
その曲に対する気持ちとか元々の歌い手に対する想いとか。
そういう部分なのかもしれないなって何となく思ってたりする。
大分前に同じような話題を書いた時、自分の古くからの知り合いで、同じように一番最初から娘。、ハロプロ
見てきてる人がこんな風にコメントしてくれたことがあって。


「歌うのはいいんだけど、その時にオリジナルをできる限り忠実に表現できるように努力してほしい」


それは別にモノマネで歌えとかいうレベルのものではないっていうのはわかるとは思うけれど。
その時はまだ多分言葉半分にしかその言葉を理解できていなかった自分だけれど、今は何となくわかる気がする。
何ていうかその曲を大事にしてほしいとかニュアンスとしてはそういう感じのことを思ってたのかもしれない。
だからそれこそ「与えられた曲をそれなりにこなして歌う」なんていうのはやめてくれないかって思うし、
それなら「自分でこの曲が歌いたいと選んで一生懸命歌う」っていうほうがいい。
簡単にいえばそういう違いだと思う。


「歌」って色々な思い出とともに残るものだと思うし、この曲を聞くとあの時のことを思い出すみたいなね。
そういうのって人それぞれ色々あるだろうなって思う。自分だってそうだし。
そういったものが発展して、昇華してそういう思い入れとかに繋がるんだろうなとも思う。
だからやっぱり大事に歌って欲しいっていうのはあって然るべきものかもしれない。


そういうのが伝わってくるかどうかなのかな、結局は。
それが別に特別な想いを持ってとかじゃなくても、ただ”好き”だからっていう理由でもいいって思ってて。
その曲だったりその元の歌い手だったりの人が好きっていう思いが根本でも。
そういう部分で自分が色々感じることが出来るようになったのかなって思う。
頑なに拒んでいた自分の状態が変わったっていうのがもちろんだけれどね。
曇り眼で見ることは少なくともなくなった気がする。


そして、そのきっかけは℃-uteなんですよね。自分にとって。
℃-uteというか、ちっさー岡井千聖
ここ最近では美貴ちゃんの歌をほかの誰かが・・・っていう状況は℃-uteの現場ばかりで。
自分が行ったパシフィックへヴンのイベントでも、「ロマンティック浮かれモード」が歌われたりね。
元々彼女が美貴ちゃんのことを好きだっていうのは応援企画とかでも聞いていたし、モノマネとかも良くしていたしね。
そういうのが徐々に形になっていってっていうのが大きいのかなぁって個人的には思ってたりします。
その後、今年の初めには青年館でキューティーショー。初日。
舞美ちゃんが紹介してくれた曲は「会えない長い日曜日
去年、或いは一昨年の自分だったら無理だったろうなって思う。でも、その時は無理ではなかった。
偶然にもその時の連番者は、一昨年のハロプロパーティでの自分の連番者と同じで。
あの時の自分の凹み具合を知っていただけにすごく心配させてしまって、とても申し訳なかったのだけれど(苦笑)


自分が好きだと思う人だったり、曲だったりを好きだっていう人が増えたり、そう言ってくれる人が増えるのはやっぱり素直に嬉しい。
千聖ちゃんはそれからもいろいろなところでそういう部分を見せてくれたし、
つい先日、今年の夏のサーキットの時にも、モノマネをする機会を与えられた彼女は、
美貴ちゃんのマネをしてGAMの「イチャイチャ Summer」を歌ってくれて。
あの時もレポで書いたけれど、本当にビックリした。
GAMといえば今で言う美貴ちゃんの一番新しい曲で。その曲を聞いていてくれてそれをこうして歌ってくれている。
自分勝手に凄く嬉しかった。千聖ちゃんありがとうって思ってしまった。
こんなに好いてくれてるんだなって・・・ホント嬉しかった。


「歌」はただ存在するだけではきっと大した価値がないんだと思う。
それを歌う人が居て、そしてそれを聞く人が居てこそ輝きを持つものだと思うし、
存在価値があるものだと思う。凄くそう思う。
歌を歌い継ぐことはその歌を大切にすることだと思うし、その歌の輝きを持続させるためのことで。
だから、今思うのは・・・歌ってくれてありがとう。