携帯小説家その7


℃-ute→夢野美鈴→℃-ute


そういう流れがあるのかも。




ずっと引っかかっていることがあって。
引っかかっているというか、言葉で上手く言い表せなくてもどかしくて、けれど凄く胸が熱くなってくる所。
そう、今回の携帯小説家でラストに℃-ute℃-uteとして2曲ライブで歌ってくれるんですけどね。その部分。
何か分からないけれど、いつもと違う。いつものライブと違う何かみたいなものを感じていて。
単純に今までより凄いっていう表現の仕方もあるのだけれど、その部分を上手く言葉に表すことができなくって。


で、昨日かっしぃから脚本を書いている太田さんのブログの内容を少し教えてもらって・・・それからまたちょっと考えて。
ラストのライブ、℃-ute、歌・・・その辺りをヒント、キーワードにして。
「そのままでも十分魅力的な℃-uteの歌、踊りをどうやったら芝居を通して更にグっとこさせることができるか」
そういうような言葉。


一つの劇の流れとして、最初のコミカルに笑わせてくれる部分があって、それから段々と核心に迫るというか、深化していく物語。
そして、すべてが終わって、また戻る。終わる。始まる。そういう流れ。
その辺りの”終わり”とか”始まり”っていう言葉からも何か色々と考えることができそうなのだけれど、そこはとりあえず置いておいて。


自分が考えたのは、最初の部分導入部は「℃-ute」であって、中盤以降の大先生とのやり取りがあるシーンは「夢野美鈴」であって。
そして最後にまた「℃-ute」に戻る。そんな一つの流れのようものがあるのかなっていうことで。
自分自身の中でも℃-uteのファンとして舞台を見ている自分と、純粋に一人の人として舞台を見ている自分が複雑に絡み合っていてね。
その辺りのやり取りというか変化が自分でも把握しきれていない部分がある。
けれど・・・何というか・・・自分の中で、途中である一定の時間、彼女たちが℃-uteであることを忘れている時間があるんじゃないかっていうような感覚。
凄く表現しづらいけれど。
そして、最後のライブになった時に彼女たちは℃-uteだったんだっていうことを思い出す・・・というような感じかな・・・
ストーリー的な面とか台詞とかをもっと追って考えれば色々とまた浮かんでくることもあるかもしれないですね。


彼女たち自身の中にももしかしたらそういう感覚があるのかもしれない。
最後歌を歌う前、歌う時に考えることってあると思うんですよね。
「これからライブ」「私たちは℃-ute」・・・色々と。きっと改めて。


歌っている彼女たち、踊っている彼女たちはやっぱり凄く魅力的で、輝いていて。
そのことに改めて気づかせてくれるというか・・・そういう意図があるんだとしたら・・・その通りにはまってしまっているのかもしれない。
あのライブを見ているとね、自分の中での℃-uteが好きだっていう想いが体中から溢れてきて、爆発してしまう感じになるんです。


歌っている℃-uteがとても好き。